来てくださってありがとうございます。


このブログにも沢山のことを綴ってきた私の母
ケイやタクミの祖母であるひろこばーちゃんが
1月10日に他界しました。
享年76歳

1月15日に無事葬儀を済ませ
諸々の手続き等も終わり
ようやくこのブログを書こうという気持ちになりました。



1/2から入院し
1/5に私は帰省し毎日毎晩病院で付き添っていました。

点滴に呼吸器を入れながら
咳もずっとしていて苦しそうだったけど

まだこの時は少しベットから起こして話せる時間も作れました。

1/6の夜は弟もきて3人で昔話しや
父の話しをした動画もしっかり収めることができました。
これがちゃんと長く話せた最期だったかな。

翌日はベットに座れる時間も短くなり
もうろうとする時間も多く
日に日に変わっていく姿を感じていました。

一日中苦しそうに咳き込んでいたり
呼吸器が外れないか見守っていたり
急変するのではと心配なあまり
なかなか寝付けなくて
一時間睡眠が続いていました。
それでも気が張ってるためか、寝不足からの頭痛があっても眠気を感じることはなかった。
ただ、母から離れるのが怖かった。


呼吸器をずっとつけているせいか
幻覚を見ることもあったり
寝言なのかなんなのか訳のわからないことを言うようになったり
日に日に弱っていく母を感じていた。
医師からも覚悟してくださいと告げられていたこともあり
私たちは覚悟を決めていました。



5日間の付き添いの中
いくよ、いくよ、じゃあね
と言ってみたり
もうやだ、もうやだ、もういい
と言ってみたり
もう、あの世いきかも
なんてことも言われました。


そして
そばにいて
とも言われた。



横たわっている母に覆い被さって
耳元で声がけしたとき
手を伸ばした母が私を抱きしめてくれた

ありがとう
って
そう伝わったよ





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1月15日
先生から覚悟してくださいとの連絡があり
すぐに全員へ連絡し
近くに住む孫たち
仕事中の妹や弟も全員病院に駆けつけた

遠方からは
ケイが私の妹を札幌で拾い
すぐに帯広に駆けつけてくれた

この日はもともと半休をとって帰ってくる予定だった妹。
母にはずっと、金曜日にひっとがくるからね!って毎日言ってたから母はわかってはいた。


看護師さんから
体内の酸素が少なくなっているから
あとどれくらいもつかわからないと。

ケイと妹たちは
高速が止まってしまい
予定時間を大幅に過ぎてしまった。
テレビ電話で
まだなんとかもっている母に妹の声を聞かせ
ひっとがくるよ、もう少しでくるよ!と声がけする中、母はうなづいていた。


でも、なかなか着かない
早く!早く!
間に合って!!!!!!!




そんな願いも届かず
母の心臓は止まった、、、、、、






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でも。








妹が病室に入ったとき





心拍の機械がもう一度動いた








なんで最後まで頑張るの!!!!!
ずっとずっと頑張ってきたのに
最後の最後まで頑張るなんて!!!!!




17時42分
母は家族全員に看取られ
苦しみから解放されました。


みんなから
ありがとう、ありがとうって
さすってもらえました。









葬儀が14日からだったため
家に帰りたいと言っていた母の気持ちを思うと
4日間もの間
自宅でゆっくりと眠ることができたし
私たちも母と長く一緒にいられました。



生前
私は母との思い出をたくさん作ることができました。
写真や動画もたくさん撮ることができたから
全てが私たち家族の宝物となりました。


この数日間
母のことを考えたときに
こうしておけば良かったなとか
普通なら何か思うかもしれない

入院中に母から
親孝行いっぱいしてもらったよ、ありがとうと言ってもらえたこともあったからかな
後悔
というものがあったなら
今の私はそれを感じることないです。


ただ。
母と娘3人、そして義妹を含めた
女5人での温泉旅行の夢を叶えられなかったのは残念です。


まだ私は実家にいて
ばたついているせいか母の死に実感はありません
きっと元の生活に戻り
よく電話をしていた時間になったら
寂しさが込み上げてくるんだと思います。



母を反面教師としてきたけど
母に敵わないことは沢山あった

義理堅く
まっすぐで裏表もなく
とても誠実な人




「将来、ママができなかった生き方をしていくね」
「うん、そうして」


これが私と母の最後の約束。